大奥

大奥で有名な篤姫はどうして人気なのか?日本人好みの理由が明らかに!

歴史や大奥について興味がある方に、「大奥で有名な女性と言えば誰ですか?」と質問をしたとすると、回答が来るのが

  • 春日局
  • 篤姫

というこの2人になる事が多いです。もちろんもっと詳しく勉強をされた方ですと、「桂昌院」「和宮」などいろいろな名前が出てくるのですが、一般的な知名度や人気もこの2人に集約されています。
春日局に関しては三代将軍の乳母として奮闘した、というイメージが強く、名前だけでも聞いたことがある方は多いと思いますし、歴史の教科書にも掲載があります。
しかし、篤姫に関してはどうでしょう。春日局ほど教科書に掲載されているイメージもなく、インパクトも少ないはずなのにどうしてか人気があるのです。

そこで今回は、春日局ではなくあえて「篤姫」にスポットを当てて、
篤姫がどうしてここまで人気なのかを独自の考察を交えて紐解いていきたいと思います。



理由1:大河ドラマが大ヒットしたから

まずはこちらが理由の方もかなり多いと思います。

当時歴史ものが好きじゃなかった女性や若年層を中心に、宮崎あおいさんの演技に感銘を受けた方は多く、当時あまり知られていなかった「篤姫」についてブームが起きるほどとなりました。

あまり知られていなかったからこそどのようなストーリーなのかがわからず、ネタバレもあまりなく、純粋に楽しむことができたという意見もありました。

当時の視聴率は?

宮崎あおいさんが主演だった大河ドラマ「篤姫」は大ヒットしたことで話題になりましたが、驚くべきはその視聴率。初回から最終回まで20%を切ったことはなかったのです。今の大河ドラマではなかなか見ない数字ですよね。
平均視聴率では平成の大河ドラマでかなり人気だと言われていた「功名が辻」や「利家とまつ」よりも上だったのですから、かなりのヒット作と言えますね。

理由2:日本人が大好きなシンデレラストーリーがあるから

続いての理由が、主人公が数々の困難を乗り越えながら地位を上り詰めるシンデレラストーリーとして面白いから、というものがあります。
篤姫はそもそもとても高貴な家の娘ではありませんでした。

薩摩(鹿児島県)の島津家の分家の娘なのです。分家と言えども9代藩主・島津斉宣の孫ですからその辺の旗本や農家よりももちろん格上ではあるのですが、当時この身分の女性が将軍の正妻(御台所)としてお嫁に行くなんて考えられないものでした。
通常であれば、同等のレベルの家臣の息子や、少々良くてどこかの藩のお殿様の妻になる程度だったと思われます。

しかし、篤姫はその後島津家の本家の養女になり、その後将軍家に嫁ぐために近衛家の養女になり(形式上公家から嫁に行ったことにするため)最終的に徳川家の人間となるべく御台所として、13代将軍徳川家定のそばで生活することになるのです。

この、ちょっとした武家の女の子が、数奇な運命を経てどんどんと出世をしていくという人生が、日本人の大好きなシンデレラストーリーに見えるのです。

篤姫の本来の夫は誰になるべきだったのか

もしもの世界になってしまうのですが、篤姫があのまま島津家の分家のお姫様として一生を過ごすことになっていたとすれば、誰が夫となっていたのでしょうか。
数々の憶測は立てられますが、例えば小松清廉(こまつ きよかど:肝付尚五郎や小松帯刀としての名前が有名)などが候補としてよく考えられます。大河ドラマでは篤姫に対して恋心をちらちらと見せていた清廉ですが、主君は篤姫の養父である島津斉彬でしたし、のちに藩でもかなり有名なポストに就いているうえに愛妻家としても有名です。
病弱ではありましたが、勉学に対する姿勢にかなり前向きでしたから、聡明な篤姫とは話が合ったのかもしれません。

理由3:悲劇のヒロインに見えるから

先ほどシンデレラストーリーとお伝えしたのですが、それは輿入れ(嫁入り)までのこと。そこから篤姫は数々の悲劇に見舞われます。
まずは養父として篤姫を支えてくれた島津家本家の島津斉彬の死。心の支えとして良い父親でいてくれた斉彬は輿入れして2年もたたないうちにあっけなく亡くなり、まず大きな後ろ盾を失います。

その後、なんと今度は夫として生活していた徳川家定自体も持病の脚気が悪化して亡くなったのです。徳川家定との結婚生活はわずか2年弱。しかも、家定は病弱だったため、そこまでちゃんとした夫婦生活を送ることもできていなかったと言われています。

遠く九州から嫁ぐために京都で養女となり、その後江戸に入るものの父にも夫にも先立たれ、まともな夫婦生活もないまま子供もいない。
そして亡くなるまで薩摩の地をもう一度踏むことはなかったのです。

数々のひとたちに振り回された幕末女性の姿が悲劇のヒロインに見えるという理由でもかなり支持を得ています。

理由4:強い女性に見えるから

最後の理由は、そんな篤姫ですが、かなり芯の強い女性だったということでも有名です。
14代将軍の徳川家茂の母代わりとしてそばで見守り続けました。
夫であった家定が亡くなったときに、故郷である薩摩からは、帰郷するようにとの申し出があったようですが、篤姫はそれを拒否します。
「一度嫁として江戸に入ったからには、江戸でしっかりと生活をしていく」という篤姫の強い意思の表れとも見えるエピソードです。

そして皇女和宮がお輿入れしたときもぶつかりながらも精一杯嫁姑として生活を共にしていき、のちに二人は和解し江戸城を離れても仲良くしていました。
篤姫自身は江戸城無血開城まで大奥にとどまり続け、将軍家としての最後の仕事をしっかりと全うしていきました。

その後、徳川将軍家が政治の実権を握らなくなってからも、16代当主であった徳川家達を育て、英才教育まで施しましたが、この時にも篤姫の強い女性としてのエピソードが。
生まれ故郷である薩摩はこの時倒幕運動に加担しており、篤姫とは敵味方になっていました。
そのため、篤姫は生活費を倒幕運動に参加した島津家からは一切貰わなかったのです。つまり、最後の最後まで徳川家の人間として芯を貫いたのです。
・・・そこには唯一の夫としてそばにいたけれどもちゃんとした夫婦としての生活が少なかった、家定への思いもあったのかもしれません。

この芯の強さが当時大河ドラマを見ていた女性からも絶大な支持を得て、その後さらに篤姫人気に火が付いたと言われています。

最後に

篤姫があまり歴史を知らない女性からも人気があったのは、女性があまり出しゃばれない時代であっても意見をしっかりと持っていたところや、悲劇のヒロインな部分が共感を呼んだのではないか、という意見になりました。
もちろんきっかけは大河ドラマであったことは間違いありません。
しかし、今でも根強いファンがいるという事は、篤姫自体の魅力があってこそだと考えらえます。

今後もまた大河ドラマで大奥を題材とすることはあるかもしれませんが、その時はまた違った角度で篤姫を見る事が出来るかもしれませんので、楽しみにしましょう。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

Yumi

TVがない田舎生活を始めて6年。東京生まれ東京育ちですが、人混みは苦手です。会社員の傍、ライターやHP制作、SNS集客など複業としてWEB業務を幅広く行なっています。夢は子供も大人も自由に集まり、成長を見守り応援しあえる温かい居場所を作ること。

© 2021 Garden