大奥

大奥消滅後の女性たちはどうしたのか?その後の人生をリサーチ!

江戸城で女性たちが華々しく生活をしていたことで有名な大奥。
その大奥も徳川将軍家が消滅し、江戸城無血開城をした後は消滅してしまいました。

夢のようなきらびやかな生活を送った女中たちも、消滅とともに江戸城から解放されてそれぞれの生活を送って行ったことでしょう。
しかし、その後の女性たちをあまり知らない方も多いと思います。

そこで今回は、大奥から去った女性たちにスポットを当てていきたいと思います。
一体彼女たちはどのような人生をたどったのか、それぞれの生き方の違いを楽しんでいただけたらと思います。



 

大岡ませ子

プロフィール

1843年(天保14年)~大正9年(1920年)11月22日
通称:ませ・やの
大奥御年寄「瀧山」の姪
勝海舟のはとこ

最初は瀧山という御年寄(女中の位、ほぼ最上位)の部屋方と言って、滝山の身の回りの世話をするために私用に雇った女性でした。
のちに天璋院篤姫(徳川家定の正妻)の御中臈となりました。
大奥での名前は「ませ」。篤姫の傍で猫の世話をしていたと言われています。

篤姫が猫を飼育していたのは、家定が犬を苦手だったからだそうです。
ちなみに大奥が消滅する前にいとまを出されたものの、無給で大奥で勤め、篤姫のお世話をし続けました。

大奥が消滅したのちは三田村鴛魚(みたむらえんぎょ:江戸文化・風俗の研究家・江戸学の祖とも言われる)に誘われて大奥時代のことや内情などを話し、これが現在の大奥を知る資料となっています。
その書物は「御殿女中」としてまとめられています。

徳川慶喜の小姓だった村山鎮と結婚し、村山ませ子として余生を過ごしたそうです。

瀧山

プロフィール

文化2年(1805年)~1876年(明治9年)1月14日
通称:多喜・瀧山
勝海舟の母・信の従姉妹

14歳より大奥に入り、才覚が認められて家祥付御年寄を経て将軍付御年寄に任じられました。徳川家定の将軍継嗣問題の際に、14代将軍になった家茂派として篤姫と対立し、のちに家茂が将軍になって勝利します。その後、家茂が若くで亡くなったのを期に御年寄の職を辞したと言われています。
江戸城無血開城のあとは、もともとのルーツをたどって現在の埼玉県川口市で過ごしたそうです。
しかし、彼女の年齢はすでに60歳を超えていました。そこで晩年、夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興しました。

その才覚は15代将軍徳川慶喜も認めるほどのものだったらしく、老中より力があったとのこと。
しかし、私生活ではずっと大奥にいたため誰とも結婚せず、青春時代から人生の大半を大奥で過ごすことになりました。それが瀧山にとって幸せだったのかはわかりませんが、余生は二人の養子を迎えて心穏やかに田舎で過ごしたのかもしれません。

佐々鎮子

プロフィール

生没年不詳
御次だった

1844年から48年ごろに大奥に入り、御次(お目見え以上でここから御中臈として出世することも多かった割と目立つ職)として将軍4代にわたって仕えていたとされていますが、生没年などはわかっていません。
篤姫が無血開城の時に大奥を退去しましたが、その時も最後まで大奥に残り、前述の瀧山らとともに従って去ったと言われています。
特に篤姫の身の回りのお世話をしたという事で、その様子がのちに「旧事諮問録」という書物の上巻に記載されています。
その内容とは主に篤姫の日常生活、大奥の制度、風俗に関するもので、大岡ませ子と同じように近年の大奥研究に欠かせない証をしてくれています。

その他大奥の女中たちはどうしたのか

通常江戸時代に大奥の女中となってその後退職して故郷に帰った人(お目見え以下のひと)は、「大奥で女中の経験がある」ということで自分の経歴に華を添えるのに役立っていました。
しかし、江戸城無血開城で大奥を去った人は、高貴な女中もいたため、結婚のための道具にできないような人もいました。

嫁入りに失敗

こうして大奥を去り、一度地元や実家に戻った女性たち。
やはりまずは大奥に勤めてマナーや作法はばっちりだし、きっと引く手あまただろう、という事で嫁入りを考えた人が多くいたのですが、意外なことにことごとく失敗した人も中にはいたのです。
見た目はそれなりに美しく、品もあったのにどうしてかというと、理由は簡単。

確かに教養と品はあったのですが、家のことが全くできなかったり、今まで女性にまみれて生活する変わった場所にいたため、男性経験などもなく、うまく妻として母として渡り歩けない人が多かったのです。
自分のプライド・誇りが邪魔をして、男性の後ろに歩くというのがどうも性に合わなかった人もいました。

そうなってしまうと大変です。
一度嫁に行ってもすぐに不仲で離縁されたり、家の事がうまく回らないと言われてしまった、という事が多発していました。

こうして女中たちはどこかの家に入ることもできず、身の置き場所に困ってしまいました。

技術を活かす生き方に

そこで元奥女中たちはどうしたかというと・・・

「自分の教養を活かした仕事をすればいい!」
という考えになったのです。

具体的にどのような仕事に就いたのかというと・・・。

具体例

  • お茶の先生
  • 華道の先生
  • マナー講座などの先生

こうして将来嫁に行きたい、自分の品格(今でいう女子力)などをあげたい女生徒を集め、師匠として活躍すると大成しました。
そして、その生徒たちに、大奥での流行りや内情を話したりすることもあったようで、これが後世に伝わっていったのです。

いま語られている大奥の内情のほとんどが幕末もしくは御末・御半下と呼ばれる一番下の身分の女中の内情になっているのは、箝口令(かんこうれい)が敷かれていたからですが、将軍家がなくなった後は黙っている必要もなかったので、マナーや流儀を教えつつ、過去の栄光を伝えていったのでしょう。

こうして女中たちはそれぞれのやり方で大奥を去った後も活躍していったのです。

参考資料

カラー版徹底図解 大奥(新星出版社)

最後に

大奥の内情を語った人もいれば、どこかの嫁になって幸せになった人もいて、女中の数だけドラマがあったことがわかりますね。
しかし、大奥ではたくさんのマナーやお稽古が出来、そこそこ見た目も美しい人が多かったことから、何とか第2の人生を歩んだ方も多かったようで調べていて安心しました。
幕末から明治の女中たちは世間の荒波にもまれ、大奥という住処も仕事も失いながらも自分たちの輝きを忘れなかったのは素晴らしいと思いますし、私たちも見習うことがあるかもしれません。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

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